相対的な負の数
「-1を引く」「-2℃冷たい」・・・・世の中にはたくさんの負の数が存在する.しかし面白いことに,自然界には負の数は何一つ存在しない.「りんごが-1個存在する」なんてことはないし,-2℃だって人間の決めた"セルシウス温度"という目盛りでしかない.物質の振動で言えば,私たちが絶対零度(-273.1℃)と呼んでいる温度こそが「ありとあらゆる物質が動かない虚無の温度」であり,それより低い温度というのは存在しない.既になにも動いてないのに,さらに温度を下げる方法はないからだ.0℃なんて決めてしまうから,こんなことになってしまう.
しかし私たちが数字を使うとき,必ず「0」は定義しなければいけない.
私たちは,水が凍る温度をなぜか0℃と呼ぶ.そうしないと温度が数字で表せないのだ.そして,微妙なところに0℃をセットしたことで,負の数が生まれる.
私たちは,白紙の回答をなぜか0点とする.そうしないと点数が数字で表せないのだ.そして,白紙より悪い回答が存在すれば,そこにも負の点数が生まれる.
しかし我々は,そんなところに0を決定してしまったがために,絶対的評価をすることができなくなってしまった.なにが言いたいかというと,人は常になにかと比較しなければ判断ができない.それは永遠に人間の弱点だ.
俺は絶対的評価をしている,なんていう人間は,ほんとうにおこがましい奴だ.いい絵を1000回見た人が普通の絵を見ればひどいと思うが,ひどい絵を1000回見た人が普通の絵を見れば素晴らしいと言うだろう.そんなもんなのだ.
ぱっとりんごを見せられたとき,人間はそのりんごに ”いい” "わるい" というイメージを持つことはない.そのりんごの隣に「くさったりんご」が置かれたとき,はじめて「あっ,こっちのりんごは"いい"りんごだったんだな」と思う.
それだけではない,その2つを比較する時,りんごを0点とすれば,くさったりんごはマイナスの点数になることは分かるだろう.しかし,くさったりんごを0点とすれば,りんごはプラスの点数になるのだ.0点,要するに,見る人にとっての基準が"くさったりんご"なら,あらゆるものがプラスに見えるのだ.
比較する上でマイナスはとても重要になってくる.マイナスがない場合,一番悪いもの,一番低いものを,0かそれ以上にしなければならない.しかし,人間の力では「一番悪いもの,一番低いもの」を探すことはとても困難で,手頃なものを0としたくなってしまう.その結果,自然界には存在しないはずの負の数が必要になってくるのだ.
考えてほしい."くさったりんご"を0点としても,もっとひどいりんごはきっとある.そのりんごと出会ったとき,マイナスの点数をつけなければいけない.「一番悪いりんご」なんて,発見するのは無理だ.
このように,負の数は存在しないにもかかわらず,人間にとって不可欠な存在である.なかなか負の数はイメージが悪いのだが,極力使いたくないならば絶対的評価をマスターするしかない.何とも比較せず,ただその物体を忠実に評価するのだ.
私はかれこれ10年以上も絶対的評価をする人間になろうと努力してきた.
絶対的な価値観を持ちたいと思っていた,そうすれば,負の数なんて要らないのだ.あらゆるものを,ただ述べる,断言する,ニュートラルで中立的で偏見なく語りたかった.
えんぴつを指さして,これは「えんぴつだ」と評価することができた.
何とも比較していないはずだ,ただ,えんぴつであることを断言しただけだ.
自分で書いた絵を指さして,これは「私の描いた絵だ」と評価することができた.
何とも比較していないはずだ,ただ,私の描いた絵であることを述べただけだ.
くさったりんごにも,これは「"くさった"りんごだ」と評価をすることができた.
何とも比較していないはずだ,ただ,"くさった"りんごであることを断言しただけだ.
それでも,私は絶対的評価ができていないのだ.
友達が来て,こう言う.『それはりんごだよ』
そう,私は「"くさってない"りんご」を,知っていたのだ.
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