1を聞いてどこまで知れるか?
世の中には動作を含む名詞があります。たとえば「道を歩いている人」「対象を取らない効果」「課金をしたデータ」「勉強をする受験生」「役満を和了した卓」「ブロックされている人」「借金のある国」・・・・・そして実は、動作を含む名詞の存在を用いて動作の存在を証明することができるんです。
例を用いて簡単に考えてみましょう。たとえば「道を歩いている人」がいたとします。この人がいることによって、私たちは「道を歩いている」かどうかをすべての「人」で判定することができる、ということです。「対象を取らない効果」があったとします。この効果がいることによって、私たちは「対象を取らない」かどうかをすべての「効果」で判定することができる、ということです。これを抽象化すると
「Aであるb∈BがあるならばAかどうかをすべてのBで判定できる」
となります。
ここで面白いのは、AであるBが1つ存在するだけで、Bのすべてに対して誓約を課すことができる点です。私たちはたった一つの情報しか得ていないのに、その情報に関わるなにかについてのすべての共通点を知ることができました。1を聞いて10を知るとは、まさにこの事でしょう。
考えてみると、さらにこれを拡張した具体例がありました。
「ラーメン屋では空席がないときに外のどこかで待ち客が列を作る。外の任意の場所において、さらにラーメン屋の中の任意の席について、待ち客がいるならばその席は埋まっている。このとき、外のいずれかの場所に待ち客がいるだけで、ラーメン屋の中のすべての席が満席であることが分かるか?」
この例の「外xに待ち客がいる」をP(x)、ラーメン屋の席yが埋まっていることをQ(y)とすると、
(∀x∀y(P(x)⇒Q(y)) )→(∃xP(x)⇒∀yQ(y))
という式に変形できます。念のためこれを証明してみましょう。
1:∀x∀y(P(x)⇒Q(y)) prem
2: ∃xP(x) ass
3: y0:
4: x0:
5: P(x0) ass
6: ∀y(P(x0)⇒Q(y)) ∀e 1
7: P(x0)⇒Q(y0) ∀e 6
8: Q(y0) →e 5,7
9: Q(y0) ∃e 4-8
10: ∀yQ(y) ∀i 5-8
11:∃xP(x)⇒∀yQ(y) →i 1,2-10
証明できました。よってこの理論は正しいということになります。この理論の素晴らしいところは、私たちは客席すべての情報を客席を見ずに判定でき、それにも関わらずこの情報を得るための「待ち客がいるかどうか」はたった一か所発見するだけでよいということです。これは、なんとも屈辱的で、恐ろしい結果です。
だって私たちはラーメン屋の行列を見ても「ああ、あのラーメン屋は繁盛しているな」というような感じで「すべてのラーメン屋の行列以外のなにか」について言及できるものはありませんでした。
カードの効果を見ても「ああ、カードには効果があるんだな」というような感じで「すべてのカードの効果以外のなにか」について言及できるものはありませんでした。
交通規制を見ても「ああ、交通を規制するかどうかを判断する方法があるんだな」というような感じで「すべての交通の規制以外のなにか」について言及できるものはありませんでした。
その常識が覆された・・・これはとても大きな発見で、当たり前という言葉では表せないような抽象的な発見でした。「1を聞いて10を知る」というよりは「1を聞いてすべての数を知る」くらいの恐ろしさがあるというか、空気の読める人やら占いをする人やら物わかりのはやい人っていうのはこういうところから現れるのではないかと思ってしまいました。
この規則を発見するにあたって、重要だったのは私がこのラーメン屋の具体例を思いついたことです。「行列があれば満席だなんて、だれに聞いてもわかるだろ」と思っているあなたは、
それを証明しろと言われてもできないでしょう。当たり前という言葉は、あってはいけません。
当たり前を教えることは私たちの永遠の課題です。
幼児に言葉を教えるとき、計算や数字すら知らない小学生に1+1を教えるとき、
動物と意志疎通を図るとき、宇宙人になにかを教えるとき・・・・
当たり前を知って、私たちはより高等な"説明する力"を得なければ、ならないのです。
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