結果の重要性
あれをやりなさい、これをやりなさい・・・それらに「なぜ?」と答える人は何も間違っていないことでしょう。意味もなく、理屈もなく行動するなんて私は到底できません。そして人々はその苦痛を乗り越える方法の一つとして、理屈付け、というものを習い、そして堕ちていきます。
「勉強しなさい」なんて、きっとだれでも言われたことがあるでしょう。でも「勉強したら世界のいろいろなことが分かるようになるから勉強しなさい」なんてきっとあなたは言われたことがないでしょう。これはまさに、結果の重要性を語るうえでとても重要になります。
「なぜこんなことをするの?」と聞かれたことがある人も多いでしょう。でも、「こんなことしたら○○が××になってしまうよ、なぜこんなことをするの?」と聞かれたことは少ないと思います。
「いじめはよくない」と言いますが、「いじめをすると○○が××になるからよくない」という例は聞かないでしょう。「運動をしよう」とは言われても「運動をすると○○が××になるから運動をしよう」と言われることはかなり少ないでしょう。人はこのようにとても結果を気にします。
朝起きるときだって「おきて!」というより、「おきて、もう朝よ!」のほうが起きるでしょう。朝だから、という理由が起きることの必要性を底上げしています。のび太のお母さんも「また0点を取って」ということを言うばかりで、0点を取ること以外のなんの選択が正しいのか、0点を取ることのなにがデメリットなのかをまったく述べていません。考えてみてください、100点を取るメリットってなんでしょう?点数が高いとなにが上手くいくのでしょう?それが分からない人はとても多く、そんな人にとって100点と0点の差というのはまったく分からないものなのです。
結果は重要です。そしてその結果は相手にとって理解可能な範囲である必要があります。
ここで、すべての{X:X∈人}にとっていずれかの人物Xが理解可能な領域の部分UをP(U,X)=>True;
と考えてやると、関わる全領域において
∃X{∈人},∀Y{∈人},∀U{∈領域} に表される ∃X∀Y∀U((P(U,X)⇒True)⇒(P(U,Y)⇒True))
を満たす人物がすべての人と分かり合うことができることが分かります。これをすべてのXに拡張すると、∀X∀Y(X==Y)の場合にのみこれが可能であることが分かり、最終的に
すべての人類が同じ範囲を理解可能でない限りすべての人がお互いの人を理解しきることはできない
ことが分かります。いやあすばらしい。
故にわたしたちは、多くの人と分かり合うためには、多くの人と同じ範囲を理解可能である必要があります。これをみなが、常識と呼ぶのです。
そしてそれと同様に、「結果と課程の理論付けは必ずしもすべての人が可能ではない」ということも分かります。注意しても犯罪者が減らなかったり、事故が減らなかったりといった現象は間違いなくこれが原因ですね。
そしてそういうことを考える度に毎回、
「常識は本当に必要なのかどうか」という疑問に対してもまた、希望が膨らみますね。
相手の理解できる結果は大事!
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