ともだち100人できるかな♪

最近「友達は100人できるのか?」という問いを掛けられました。以前の私であれば、この問いにはすぐに「できる」と答えられたと思うのですが、最近悩ましいことが多かったせいか、約4秒ほど戸惑ってしまいました。そしてその4秒も、相手からすれば大きく待たせてしまっているかもしれません。なにせ私の感じる「約4秒」と、世界標準の「4秒」の長さも、また違うとも考えられますし。


それはそうと、友達って100人できると思いますか?そもそも友達ってなんですか?どこからどこまでが友達なんですか?ってこんな質問をしていては友達なんてできるはずはありません。

しかしながら、私たちが友達を認識する上で、何かしらの基準を持っていることはほぼ間違いないとみていいでしょう。今回私が気になったのは「ともだち率理論」です。

「ともだち率理論」とは、いわば10人知り合いがいたら1人が友達で、100人知り合いがいたら10人が友達、といったような、「出会う人の中で付き合いが多くなるのは常に全体の何%」という理論のことです。私はこれをいままで強く肯定してきました。出会う人の中で話が合う人に出会える確率は常に一定で、知り合いが増えればそれだけ友達と呼べるほど話の通じる人が増えるだろうと。

しかしこれは、私の中にある人格の一つによって覆されてしまいました。人間の脳というのは素晴らしいものなのですが、サイズが決まっているということは、それだけ記憶容量にも限界があるということなんです。たとえば脳が100人までの友達しか記憶できないと仮定した場合に、101人の友達を記憶する音ができるのか?ということです。大袈裟にいってしまえば、地球上の全人類と知り合いになり、その中の任意の友達が友達であり続けるか、ということです。

私の思うところとして、この問いを投げかけられたときにちょっと戸惑ってしまった原因は、「友達と呼べる基準は常に一定ではない」という前提を、私の一つの人格が持ち始めたことにありました。

そして気づかされたこととして、友達は、常に一定数の上限を持つのではないか、という定義を提唱しました。

例えば、少人数学校に行って、10人しかクラスメイトがいないとなれば、その10人は多かれ少なかれそのほとんどを友達と認識すると考えられるのですが、40人もいるクラスとなれば、自分を除くその39人のほとんどを友達とみなすのには、無理があるのではないか、ということです。

この言葉はそのまま自分に牙をむけることになります。たとえばTwitterで2万もフォローしてる人、20人しかフォローしていない人、そのそれぞれのフォロー1つに対しての存在価値は、限りなく後者の方が高いでしょう。明らかに、20人しかいない方が、友達としての効果が高いと考えられるわけです。友達には、間違いなく限界数があることが、見て取れました。そしてその限界数も、なんらかの影響によって変動することもあるでしょう。


ところが、「じゃあ10人フォローしてて、最初は10人が友達で、フォロー100人になったら最初の10人は友達じゃなくなるのか」というのも、また疑問です。その時だけ友達、なんていう着飾りが、簡単にまかり通ってしまうのも、なんだか悲しい気持ちになってしまいます。


こんな重苦しいことを言ってしまいましたが、私としましては、喧嘩したり、久しく喋らなくなったりしても、またであったときにすぐ今まで通りの会話ができる、そういう人が、友達と呼ぶべきものなんだと思います。もしかすると、友達、いえ、親友というものは、時間に依存するものなのかもしれません。


はあぁ・・・・・・・でもなぁ・・・・・ぐすん。

トオルンのブログ

日常生活から趣味はぷよぷよやら音楽小説数学情報論理にポエムやお絵かきそして大会や太鼓などの音ゲーと、 もはやジャンルというものが存在しないブログです

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