生きる意味

生きる意味とはなんだろう。

人はみな、大人になるまえに必ずこの質問にたどり着くと言われている。


私たちは何のために生きているんだろう。まずこう気になった時、人は、

知っていそうな人に聞く。まずはこれを家族や信頼できる人に聞くわけだ。

たまたまそこに宗教があったとしたならば、宗教にはまってしまうだろう。

別に宗教は悪い物ではない。私だって神様を信じているが、占いは信じていなかったり

など、本当にひどい捏造宗教にはまっているもんだ。ところが人というのは、

一番最初に聞いたものの影響がとても大きい。よりによって、疑うという言葉も知らぬ

幼少期に誘われてしまってさあ宗教にのまれるかというと間違いなくのみこまれる。


もしも両親がなにも答えてくれなかったらどうだろう。こういうとき、人は

自分で考えを見出すわけだ。生きているとなんの良いことがあるだろうか、と。

しかし、実に考えてみると、友達や趣味が勝ることもあれば、喧嘩や将来のことを

考えて生きれば生きるほど不利になると考える人もいるわけだ。そういう人は、

まず一度「では生きるのをやめる」という選択肢にたどり着き、思いとどまるわけだ。


そう、「生きるのを止める」とは、一般に言うところの「死ぬ」にあたるもの。

そして「では死んだらどうなってしまうの?」という質問にたどり着く。

不思議なことに、これもさっきと同じで、だれもまともな回答を持っていないのだ

あっはっは、これではいくら考えても決着が付かないではないか。


ここで面白いのは、「死んだらどうなるか」と「生きる意味とは何か」に対して、

「誰も確証ある答えを返せない」という共通点があるということだ。いわば、

未知の問いであり、答えが出ていない円周率の正確な値などとなんら変わらない。

つまり、もしも誰からもリプライを受け取ることができなかった子供は、

「死ぬことと生きることに対してだいたい半々のメリット・デメリット」を

感じるということである。


君はどうだろう、今死ぬか、生きるかを聞かれたら。生きると答えるだろう。

では質問を変えましょう。今死ぬか、今後死ねないか。どう答えるだろう。

そのとおりだ。人は「死んだあとは戻れないが、生きていれば死ぬという

選択肢をいつでも選択する権利がある」という結論を、身に付けている。

そして長く生きていく中で、「死ぬという選択肢がどれほどデメリットであるか」を

知ることとなる。祖父母が死んでしまったり、親友が交通事故にあってしまったり、

普通に生きていても「とにかく死ぬことを回避しようとする光景」が目に焼き付く。

そして、「自ら死ぬことは良いことではない」と知るのだ。

自然なことではあるが、これに気づくのにはまず2~3年はかかるだろう。


法律も同じだ。法律を破った人がどうなるかを見ていないものが、

法律を守る意味を知るはずがない。私は以前猛スピードで突っ込んでくる車を見た。

怖かった。しかし思うのだ。それは危ないことであり、これを防ぐために法律が

あるのだと知った日には、Amazonで六法全書なんて検索してしまったくらいだ。

値段も当時いくらだったか覚えていないが、すくなくとも1万くらいだったか。

自分が普段食べていたお菓子や、授業で使っている鉛筆なんかと比べると、

その重みに気づいたりもした。


ルールというものは、そのルールの価値を伝えなければ、信頼されない。

日本には村八分という制度があった。村はみな、追放される人を何人も見て、

悲しみながら、自分がそうならないようにと生きていた。

大名の時代には「かいえき」という、血の繋がっている家族全員を殺すという

すさまじい処罰まであった。武士は幾度となく血を流す人たちを見ていただろう。

そして、いつか家族がそうなるのが怖くて、反乱も起こせなかっただろう。


今は刑法というものがある。ではここで問題だ。

君は刑罰を受けた人がどうなるか知っているか?

別に牢屋の様子がテレビで放送されるわけでもない。

死刑を宣告された人が死ぬ姿も見たことはないだろう。

ましてや、だれが服役していて、いつだれが出所したなんて知るまい。

そんなもんなのだ。日本人の罪人に対する思いはその程度だ。

「懲役5年、執行猶予4年」と聞いて、「たった5年なんですか!?」と怒る

遺族の方々を見て、私は悲しくなった。この人たちは執行猶予の意味も知らない。

たった5年でも、執行猶予があるとないとではまるで違うのだ。

なぜか、私たちは「懲役5年」と宣告された人と、

「懲役5年、執行猶予4年」と宣告された人がいつ、どこで刑罰を受けているのか

見ていないからだ。文献で執行猶予という言葉だけ調べるのが精一杯で、

実際にそれを見ることはほぼ許されていないのだ。


生きる意味ってなんだ。ここまで言っておいて、

「つまり生きることとは、ただしい知識を持って世の真実を知ることですね」と

言うかと思いきや、そんなことは言わない。ただ私はこうやって生きているだけだ。

いろんな人とつながりを持ち、いろんな知識を得て、ある日、驚きの場面で

つじつまが合う、その瞬間がたまらなく好きなのだ。

「なるほどこの屋台はこんなにも稼いでいたのか」

「なるほどこの人が●●しないのにはそういう事情があったのか」

「なるほどこの人はこういう性格なのか」

こうやって知識をためて生きていき、いつの間にか「自分だけの宝箱」が、

脳のなかにできていく。これが、すごい好きだ。


なぜかって?

ではここでもう一度質問をしてみよう。


「その知識は正しいの?」


不思議なことに、これもさっきと同じで、だれもまともな回答を持っていないのだ。


これだから人間はやめられない。


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