価値観の押し付け

「価値観の相違」.それは非常に複雑な言葉です.例えば,何か議論をしていて,「それは価値観の相違だ」と言われるとします.では,価値観の相違をどのように解決すればよいのかが分かりますか?私にはわかりません.そもそも,私はあなたの価値観を完璧に知ってるわけではなく,あなたの私の価値観を完璧に理解しているわけではないでしょう.もはや,「価値観って何?」と聞き返してしまうような人だって,もしかしたらいるかもしれません.

では,改めてお聞きします. "価値観って何?" あなたは,価値観を正しく理解していますか?ちゃんとあなたは「価値観を正しく理解していますか?」という問いに疑問を抱くことができますか?

正直言って,どれが正しい価値観なのかを理解することはほぼ不可能です.ただ,広辞苑を中心にいろいろ調査をしてみると,価値観が「優先順位」を示していることが分かります.


そう,価値観というのは,2つの内容・結果を比べ,そのどちらが自分にとって望ましいか,というものを,すべての比較パターンにおいて決定したものです.


例えば,目の前にドーナツとプリンが1つずつ置いてあるとします.どちらか食べていいよ,と母親から言われた時,どちらを食べたいでしょうか?

価値観で比較した結果,「ドーナツを食べる>プリンを食べる」となればドーナツを,

プリンを食べる>ドーナツを食べる」となればプリンを食べます.


ここでドーナツを食べる人とプリンを食べる人の間には,

すでに価値観の相違が発生しているわけです.


そう,価値観の相違というのは,いわばすべての人との組合せに存在するものであって,

完全に価値観が同じ人というのは,到底いないだろうという予測を立てることができます.



また,価値観というのは,本質的価値観予測的価値観という2つのものに分けられます.


例えば,あなたが奴隷生活を強いられており,奴隷生活をなんとか脱出しようと脱獄を企てたとします.なんとか高台まで逃げてきたけど,目の前は崖.後ろに引き下がれば,また捕まり,奴隷生活がもう一度,という場合を考えます.


本質的価値観とは,「あなたは崖から飛び降りるのが好きですか?」という比較です.

単純に,崖から飛び降りればどうなるか,ではなく,単純に,崖から飛びおりて風を浴びるとか,そういうのが好きですか?ということです.

予測的価値観とは,「あなたは崖から飛び降りるべきですか?」という比較です.

崖から飛び降りることに対して考えているのではなく,崖から飛び降りたらどうなるのか,生きることと死ぬことであればどちらが本質的価値観において好きなのか,そういったことを計算した結果,「崖から飛び降りたい,奴隷生活よりは,飛び降りて,わずかにでもある奴隷以外として生きる道を探したい」そう考えれば,予測的価値観において「崖から飛び降りるべきだ」と,いう結論を得ることになります.


世の中のほとんどの「好き嫌い」は,予測的価値観です.ドーナツとプリンも,どちらが好きかというのは本質的価値観ではないことが多いです.ドーナツを食べるあの触感が好きだったり,プリンの味が好きだったり・・・本質的価値観においてプリンが好きな場合,プリンの触感・味・色などには全く興味がなく,ただプリンが好きだ,というような感じになります.


「私はこれが好きだ」「しかしあなたはこれが好きだ」「これは価値観の相違だ」.もし,本質的価値観において2人の優先順位が異なるならば,それは価値観の相違です.しかし,それが本当に本質的価値観による差なのか,もっと別の目的において,情報を共有すれば価値観が変化するのではないだろうか,それを試すのが,議論というものです.そして,予測的価値観に対して相違が発生し,「これは価値観の相違だ」と返すのは,議論をする気がありません.さらに,本質的価値観に対して助言や議論をしようとするのは,もはや価値観の押し付けといっても過言ではないでしょう.価値観の相違はあって当然ですが,相違があるからといって自分の価値観を押し付けるのはもはや許されることではありません.


本質的価値観を見分けることは簡単です.本質的価値観には,理由がありません.ただ,好きなんです.そこに理由があると考えていること自体が間違っています.仏教を信じている人に対して「この人は神がいると信じているんだな」ではないんです.仏教を信じることに理由などなく,ただ "仏教を信じること > それ以外の宗教を信仰する,または何も信仰しない" が成り立っているに過ぎないのです.絵を描く人をみて,「もしかして,将来漫画家を目指しているのかな」ではないんです.絵を描くことに理由などなく,たとえ漫画家を目指していなくとも,だれも見ていなくとも,ふと何か描きたくなることだってあります.ただ好きで描いている場合もありますし,誰かに見てもらうために頑張る人もいます.

本質的価値観であれば,「絵を描くのは,時間の無駄ではないか?」という問いは,なんの解決にもなりません.

絵を描くこと > 時間を無駄にすること " が成り立っている以上,時間の無駄だと思うことはないのです.


価値観は過去に依存します.ドーナツの味が好きだとしても,直前にドーナツを食べた後,またドーナツは嫌になることがあります.これは,「ドーナツを1回だけ食べる > ドーナツを2回連続で食べる」が成り立つからです.ここで「ドーナツ好きでしょ?」と言うことは,明らかに価値観の押し付けです.自分にとって,「ドーナツを2個連続で食べる > ドーナツを1回だけ食べる」が成り立っているから,相手もそうだろうという考えに至ってしまう・・・

過去に株で失敗したことがあるから,株の取引をすると絶対に損をすると思ってしまうこともあります.「株をやったら儲かるよ」.その言葉は,すでに価値観の押し付けです."儲かる" ための理由が一切語られていないのに,こんなことを言ってしまう人が価値観の相違に気づくことはないでしょう.

価値観は,環境にも影響されます.例えば,柔術家の家に生まれるだけで,柔道に対する価値観はまるで異なります.「えっ,柔道しないの?」ではないんですよ.「柔道をする > 他のスポーツをする」が自分に成り立っているから,相手も成り立つだろうと考えてしまう・・・

柔道をやると,楽しいよ」.その言葉は,すでに価値観の押し付けです."何が" 楽しいのかの理由が一切語られていないのに,こんなことを言ってしまう人が価値観の相違に気づくことはないでしょう.


「今日来ないならクビにするぞ」風邪が治らないあなたに,上司がそう怒鳴り散らします.

本当にクビになるのか・・・?クビになることはそんなにいけないことなのか・・・?実はクビになっても新しい職場が見つかるんじゃないか・・・?

会社を休むともちろんまずい・・・しかし,予測的価値観に基づけば,あなたは明らかに会社を休んだほうがよい・・・

「来い」というのは,価値観の押し付けではないしょうか?

あなたは,会社を休むべきではないですか?


「まて,早まるな,死ぬぞ」崖から飛び降りる前のあなたに,軍人がそう助言します.

飛び降りたらなぜ死ぬのか・・・?死ぬことはそんなにいけないことなのか・・・?実は飛び降りても一命を取り止めたりするんじゃないか・・・?

飛び降りることは好きではない・・・しかし,予測的価値観に基づけば,あなたは明らかに崖から飛び降りたほうがよい・・・

「早まるな」というのは,価値観の押し付けではないしょうか?

あなたは,崖から飛び降りるべきではないですか?


私には,飛び降りる勇気はありません.価値観の押し付けには,まだ弱い生き物です.

でも,あなたなら,きっとその崖っぷちから,飛び降りてくれると思っています.


変な話ですよね,

飛び降りると,楽になれるよ」って,

言っているんですよ,私も

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