自由を潰す連帯責任
日本には連帯責任を示すような法律は特にありません.連帯保証人とか,そういうのはありますけどね.しかし暗黙のルールのような形で,日本に限らず連帯責任を重視する社会は存在し,それは様々な形で世の中に現れます.
「連帯責任」というと,皆さんはどのようなものを想像するでしょうか?例えば,
ある人物,例えば"田中くん"という人が非行に走ってしまったとき,「連帯責任」というのはどのような形で現れるのでしょうか?
非行が,例えば「こどものいたずら」のようなものであれば,「親が叱られる」「家族にクレームが入る」と答える人が多いかもしれません.
非行が「法律的な罪」だったと考えれば,きっと皆さんは「法律上,連帯責任は誰にもない」と答えるでしょう.
正直,僕は連帯責任なんてよくわかりません.私たちが想像しているものは本当に連帯責任なのでしょうか?連帯責任にはどんな意味があるんでしょうか?
そこで,私が21年間想像していた"連帯責任"とともに,連帯責任というものがどういうものだったのかを少し追及してみたいと思います.
私が俗にいう連帯責任を感じたのは小学校4年生の時,音楽コンクールの発表で合奏をするためにクラス一丸となって練習をしていた時のことでした.10月のある日に,クラスメイトの一人が忘れ物をして,合奏の練習ができない日があったのです.あのとき月曜日が祝日となっていて,もう時間がないと先生がおっしゃったばかりで,発表まで時間がないのにクラス全体に迷惑をかけるのかと,怒られておりました.
私はちっとも怒られていたわけではないのですが,私はこれを最初の連帯責任だと思いました.これは連帯責任ではなく,集団的損害というものです.集団的損害とは,ある人物が行った行動により,その人物を含めて複数人が被害(練習できない)を受けることを言います.一般的には「旅行とかでドタキャンが出た」といった現象が該当します.(ドタキャンが出たことで,その旅行グループにとって旅行が楽しいものではなくなってしまうかもしれないため)
しかし,これが連帯責任でないと分かったのは中学1年生の時でした.中学1年生の時,僕は学校で掃除の時間をなんどかサボって過ごすことがあり,それを先生に注意されていました.ある日の夜,帰りが遅くなって職員室を通るときに,なにやらうるさい声が聞こえるわけです.僕の態度に対して,なぜか僕のクラスを担当していた先生が怒られていたんです.僕は,正直意味が分かりませんでした.帰って,自分の行いが自分以外,今回の場合は先生に対しての批判の対象となっていたことに気が付いたのです.自分が掃除をきちんとしなかったことが,掃除の結果や先生からの印象だけでなく,単純に先生が起こられる原因となっていたことに,気が付きました.
私はちっとも怒られていたわけではないのですが,私はこれを本当の連帯責任なんだと思いました.これは連帯責任ではなく,利的誤認というものです.利的誤認とは,自分の行いが自分の想定していなかった場所で評価されている(今回の場合は,自分の行いに対して先生が怒られている)ことにより,自分の行いが妥当ではなかったんだと気づくことを言います.
子供が悪いことをして,親が怒られる.その瞬間を目に焼き付けたとき,子供は利的誤認に気が付いて,悪いことをしなくなります.このように,他者に被害が及ぶことを嫌って行動を渋っていく現象を道徳的拘束力といい,強烈な犯罪抑止力になります.皆さんもきっとあると思います,「誰かに迷惑をかけるかもしれないから・・・」「自分の行動で,○○勢の印象が悪くなったら困るから・・・」「家族まで巻き込みたくないから・・・」.利的誤認は,強烈でありながら,とても身近なものです.
しかし,これも連帯責任でないと分かったのは中学2年生の時でした.中学2年生のバレンタインの日,学校中で毎年チョコレートの交換などが行われているのですが,たまたまその年,先生にばれてしまうわけです.2年生全員が呼び集められ,厳しいお叱りを受けるとともに,チョコレートを1つももらっていない生徒も含め,学校に厳しい校則が追加されることになります.バレンタインに縁がない人たちにとって,完全な飛び火です.
私はちっとも怒られていたわけではないのですが,私はこれを真の連帯責任だと思いました.これは連帯責任のひとつで,受動的連帯責任と言います.受動的連帯責任とは,グループ内のあるメンバーの行為に対して,グループとして責任が問われる現象のことです.
私たちが連帯責任と呼んでいる・感じているものは,まさしくこれでした.
しかし,あろうことか私はこれも連帯責任ではないんだと感じてしまったのです.それが,高校1年生の時でした.
高校1年生の時,私は高校内でゲームをしていました.携帯触ったり,DS Liteとかやっていたわけです.そして,生徒指導に見つかります.その時,見つかったのは自分だけだったのですが,3人がゲームをしており,残り二人は見つからずに済んだわけです.そこで生徒指導が
いうわけです.
「他のゲームをしてたやつが出てこないならこいつ1人(僕)にきつく罰則を科す.いま名乗り出たらそいつらまとめて緩く罰す」
その時,その2人は名乗り出ました.僕は,正直行ってうれしかったのですが,それと同時にその2人はなぜ名乗り出たのか全然わかりませんでした.名乗り出なければ罰せられることはなかったはずなのに.
私はこれをまさしく連帯責任だと思いました.実はこれも連帯責任のひとつで,能動的連帯責任と言います.能動的連帯責任とは,グループ内のあるメンバーの行為に対して,自分が問われてない罪も率先して被っていく現象のことです.一切メリットがないのにこんなことをするはずがなく,ほとんど見られない現象なのですが,アニメやドラマでは皆さんも何度か見たことがあるはずです,「私はどうなってもいいから,この子の命だけは!」「部長!すべて私の責任です」「かばんさんも言っていたのだ,《困難は群れで分け合え》と」など,とにかく印象・信頼が強く語られるアニメやドラマの世界ではこの能動的連帯責任が活躍します.
今になって,連帯責任はとても重要なものだと気が付きました.受動的連帯責任があれば,あらゆるグループのメンバーの行為が自分に影響しますから,メンバー全員が自分を除くメンバー全員を監視するようになります.つまり,メンバー全員が自分の行いが見られている,という責任を持つわけです.それと同時に能動的連帯責任があれば,他メンバーの行いに気が付いた時に他メンバーが率先して連帯責任を負い,当の本人は責任を負った他のメンバーを見て,利的誤認により道徳的拘束力を持ちます.これが,連帯責任のメカニズムです.連帯責任とは誰かの責任を共有することではなく,責任を負うはずだった人に道徳的拘束力を与えて動けなくする,それが狙いだったのです.
しかしながら,連帯責任には強烈なデメリットがあります.それは,道徳的拘束力によって,時間が経てばたつほど行動しにくくなってしまうことです.極限的に言ってしまえば,何もしないこと・いつもどおりであることが最善手だと考えるケースが増えてしまい.発想を殺してしまいます.
オンライン協力ゲームをプレイしたことがある人ならきっとわかると思います,自分が攻撃をしかけて,いつもなら当たるところを外してしまい,その結果負けてしまう・・・そのあとのコンティニューで,自分の攻撃が当たらなかったことに責任を感じて,次に「攻撃」という選択肢が選びにくく,援護に回りだすんです.その結果,戦術のレパートリーを狭めることになり,余計に革新的な発想を得にくくなります.強い責任は,自由を殺します.
それに加えて,見ず知らずの人とグループワーク・チーム戦を行った場合でも,後々そのチーム・グループで行動することがこの先になければ抑止力にはなりません.
このような観点から,連帯責任は単純作業かつ固定集団の作業に対して用いられるべきだという結論が得られます.単純でない作業の場合は,発想を殺してしまう連帯責任は向かず,グループがころころ変わりやすいゲームのランダムマッチや転勤の多い職種などは連帯責任の拘束力が小さいと考えられます.
日頃普通に使っていた連帯責任も,しっかりと見直してみれば,乱用すべきものではないことが分かります.僕も乱用してたら自由を謳う思想家にボコボコにされてしまいます.
僕も,ブログに書く内容には(閲覧人数に応じて)ある程度責任がありますから,この世界を揺るがすほどの内容はいつも心に留めて,書かないようにしています.僕が責任を負うとき,家族や地球の未来まで飛び火してしまっては僕が困りますからね・・・
さて,僕がここまでして連帯責任を語ったのはなぜかというと,えっと,なぜなんでしょうか?僕はなにか大切なことを言おうとしていた気がするのですが・・・なんだか心に留めて,書かないようにしなければならないのではないかという思いが,込み上げてきてしまいました・・・!
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