まるで覚えるだけのよう

友達が塾の講師をやっておりまして、たまたま見る機会があったのですが、「ここはこうするんだよ」という発言に、それはもはや意味をなさないよと批判したところ、口論になってしまいました。

というのも、僕も高校生の終わりごろ、かすかに塾に通っていまして、同じようなことを言われたことがあったのです。それが原因で塾はすぐにやめてしまったのですが、やはりあの教え方はあってはならないものだと思います。

「ここはこうするんだよ」という発言には、「こうする」ことが述べられているのですが、それはどちらかというと定義です。新しい知識なので、記憶の一つに分類され、同じ記述問題を解いていても表現が多少変わったり、求める部分が変わったりするだけで通用しなくなります。まるで覚えているだけのようなもので、とても使い勝手の悪い記憶です。教えるべきは定義ではなく方法なのです。ある問題の解き方に言及する場合は、その問題の共通点に着目してしっかりとした条件分岐を与えることが重要になります。「この部分の数字が最初の引数の二乗になっているときは~~」「密度に関する問題で水が出てきたときは~~」など、「この場合は」よりもより広い範囲を指し、例外らしさをなくした教え方が、必要です。

私が塾で数学を習っているときにも、同じことを言われました、「ここはこうするんだよ」と。私は、ここはこうするのか、と思い次の問題もその方法で解くと、その問題には使わないよ、と。また次の日、ある問題で悩んでいると、ここはこうするんだと昨日言ったじゃないかと、言われたのです。言われている身として、わけも分からず、塾を辞めて自分で勉強を始めて、やっとその意味を理解しました。

こうできるああできる、というのは、暴論です。それには他者を納得させるほどの理由が必要で、だから塾の講師というのは貴重な存在なのだと思います。ここはこうする、そこはそうする、そんなもの、解答の載っている本と何も変わりません。より理屈的で、仕組みを知っていることが塾の講師に求められているものだと思います。絵なんて誰でもかけるとか、プログラムなんて塵ほどに簡単だとか、僕はよく考えると「どういうとき、どうやって絵を描くのか」「どういうとき、どうやってプログラムを記述するのか」について、1度も語ったことはありませんでした。自分が持つ体系的な知識を人に教えるというのは一筋縄ではいかないと、よくわかります。

この問題を、芸術の分野に拡張することができれば、芸術はよりみんなにとって理解しやすいものになると思います。芸術は感性だとか言われることもありますが、私たちは少なくともある法則に従って絵を理解して書こうとしているはずなのです。その法則、体系的知識が、「このように」という表現を超えて曖昧性を極力避けて表現されれば、あらゆる芸術がより理解しやすいものとなると思います。

僕にとっての芸術は、分かる人が増えてこそ、価値があるものになると思います。


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