生きて、る?

私の部屋に、小さな箱がありました。その箱には、なにか入っていたかもしれませんし、なにもはいっていなかったかもしれません。でも、中身を確認する前に、その箱はなくなってしまいました。私はたびたび気になるのです、その箱にはなにが入っていたんだろうと。そして、その都度思うのです、その中身はあったのだろうかと。

「無限水槽」というのを、知っていますか?そこは海藻があり、外からは見えないが光は入ってくる、マジックミラーのような場所です。そして金魚が住んでいて、海藻は金魚の出した二酸化炭素と光で酸素を作って生き、プランクトンにつながって金魚がさらにそれを食べて・・・・そしてすべての生き物が生きている水槽・・・なのです。金魚は、生きているのでしょうか?

金魚は、金魚だけが金魚の存在を肯定することができ、金魚以外のすべての生き物は金魚の存在を肯定も否定もできません。国会で言えば、ただ一人が投票権を持ち、ほかのすべての議員が棄権しているような状態です。この金魚は、すべての可能性を金魚自身が持っているのです。金魚にとって「生きている」と思えばそれは生きているし、存在していないと思えば存在していないのです。

私は、たびたび思うのです。自分が一生懸命書いた創作物、子供のころに、夢見て書いた、下手なドラゴンの絵や、空想世界、それらは、なかったのではないでしょうか。私たちがないと思えば、それはなかったのです。とても悲しく、哀れで、子供のころの思い出を失っている。私は、いやです。それでも、世の中にはこのような形で、存在することを自ら以外が肯定も否定もできないような創作物がたくさん、あります。自分の思い描いた世界に、価値を見出せない状況というのは、見ていてつらいものです。確かに、下書きとか、誰にも見せずに破棄されることもあるでしょう。それらも存在しなかったことにされるのは悲しいのですが、ある種ひとつの完成品とも呼べる子供時代の妄想など、どうして存在しないことにする必要があるのでしょうか?

それは、空想以外のすべてのものに感じられます。ブログも、誰にも読んでもらえなければなかったようなものです。ゲームの記録も、誰にも知られていなければ存在していないようなものです。絵や音楽も、見る人聴く人がいなければ死んでいるようなものです。ゲームの譜面なども、遊んでくれるひとがいなければ死んでいるようなものだし、一人で通話をしていても、聞く人がいないのでその通話は死んでいるでしょう。自分宛てにメッセージを送っても誰も読まないので死んでいるでしょうし、私たちも、どこか誰にも知られないところで一人で生きていれば、それは死んでいるのかもしれませんし、生きているとも言えるかもしれません。ある事象の列挙される全ての行動が、世界の何にも影響しないというのは、辛いという気持ちの半面、苦しみを和らげる、”ことも”あるかもしれません。

知られることが、私たちの存在証明であって、影響することが、私たちの存在意義だと言えるでしょう。知られたくないことというのは「殺したいこと」、影響されないことというのは「生きていられないこと」につながると思います。僕は、できるなら、

思い出は生かしてあげたいです。

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