すごいの表現

いやー超ひさしぶりです。かなり忙しいことがありまして、とても長い間ブログを休んでおりました。おかげでめちゃくちゃ閲覧者数も落ち着きまして、死ぬほど意気消沈しています。

さて、なんかいきなりブログを再開したのは実は理由がありまして、適切な日本語に関するお話を友人としていたときのこと、「すごい」という表現を適切に当てはめたいという議論をしていたのです。

実際、「すごい」に関連する、ほぼ同義の単語というのはクソいっぱいあります。たとえばこのブログのタイトルから読んでいくと、「すごい」「超」「かなり」「とても」「めちゃくちゃ」「死ぬほど」という感じです。この段落にもすでに「クソ」がありますね。これらがすべて英語でいうなにかの単語一つに当たるのかというと、それはとても微妙で、やはり私たちはただしい形容の方法を学んでいく必要があると思うのです、(形容の方法とはいっても形容詞に絞った話ではありません)

その作業を行っていく過程で、実は形容詞の選び方というのは話し手を修飾しているのではないかという命題を得ました。どう思いますか?例えば、「とても~ですね」と「超~ですね」の間に、この言葉から想像される何らかの性格のイメージが埋め込まれているということです。

しかしこのような話を進めていったところ、これは形容に限った問題ではないという可能性も出てきました。例えば、すでに名詞として「僕」「俺」「私」の3つから想像される人物像が大きく違うということです。私たちが「すごい」という言葉に対して曖昧な使い分けをしていることに大きな違和感を得ていたことと同じように、実ははるか昔から一人称の使い分けに対しても議論がされていたと考えられます。

で、ここで思うのです。この選び方に集合的要素がないかと。考えてみれば、「僕」よりも「俺」を選択する人物が「とても」と「超」だったら「超」を選択するよな、という話です。(あくまで体感的な話であって、厳密に"俺"をつかう人物が"超"しか用いないというわけではありません。) 同様に、「超」を使う場合においては「僕」が選択される可能性は極めて低いだろうと思うわけです。

最終的に、このようなグループ化を行っていけば、言語はある方言単位で閉路をもつグラフで表せると考えました。「とても」という単語が直接「超」に結びつくことはない(同時に使われる機会が少ないと考えられる)としても、その「とても」が「僕」とつながり、「僕」という言葉がどこかで別の単語とつながって「うち」につながって、「超」や「ヤバい」に接続される・・・方言の壁を超えなければそれはすべての単語とつながる可能性を持つのかと、言語としての結合の強さを感じました。

実際、別の言語とは相容れない日本語ではありますが、多少言語どうしの組み合わせがあっていなくても、いくつかの単語との接続でひものようにつながっている日本語は(違和感があっても)認識可能で、言語という集合はむしろこのような定義から生まれたのではないかと思いました。きっと日本語を使う私たちの脳内でも、このような単純な記憶ではない構造型アプローチを試みているんだと思います。

その話のあと、なにがあったかというと、ピザポテトを買って食べました。

非常においしかったです、非常に。

にしても高かったですね、非常に。


ピザポテト人気なんでしょうね。

食べたら日本語をすっかり忘れてしまいました。

ってか明日は土日だ~~あそぶぞ~~~~

それではまた次回・・・

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