神の天才は天才ではない?

「神の天才」・・・それはとても頭の悪い比喩のようで、しかしながら褒め言葉としてとてもすばらしい。私はこの言葉が好きです。もとはといえば神すぎる、天才だ、というような二つの形容詞から生まれたにすぎないような成り立ちですが、この言葉は、同様に「形容詞としての立ち回り」について深く考えさせられるものでした。

神の天才とは、神でしょうか?答えはイエスです。神の天才というのはいわば神というベクトルを持っているわけですから、これは神と言わざるを得ません。しかし私は、「では、天才なのだろうか?」という自分の問いかけに、とてもノーと答えたくなりました。しかし神の天才は、天才という名詞で終わっていながら天才ではないなどと言うのはお恥ずかしいというのが現状です。

みなさんは「神の天才、というのは天才か?」と聞かれたらどう思いますか?

天才とついていながらも否定する勇気がある人がいますか?

理由はどんなものでも構いません。「神の天才は神の中の天才だから、神以外からしてみれば天才ではないかもしれない」「天才というものもレベルがあるのかもしれない」なんでもいいです。

これを理解するには、とても時間がかかるでしょう。わたしは、これをより簡単にみなさんに伝える方法はないのかと公園で頭を抱えていましたところ、近くの小学生が通りすがりに言っていたひとことでピンときました。



学校で「1の2」「2の1」と言われたら、みなさん何を想像しますか?もちろん、「1年2組」「2年1組」でしょう。しかし、「1年2組は2年生ではない」「2年1組は1年生ではない」というのは、すぐ分かると思います。これの1と2を神と天才に置き換えてみたところ、すべてが解決しました。

「神の天才は、天才ではない」のです。神の天才というのは、神というジャンルの中の天才であって、私たちの想像に値する"神と同格の"天才というジャンルには含まれていない、というのが答えでした。私たちは、知らず知らずのうちに神のなかに天才という新境地を開拓してしまい、神と天才を同次元視しているという恐ろしさに気が付いていなかったのです。


まさにこの「神の天才」という言葉はこの事実を再認識させ、私にもういちど、言葉の大切さを理解させようと必死に私に訴えかけていたのではないかと思い、奇跡的にもこのような言葉と巡り合えた自分は新年早々運を使い果たしてしまったのでないかと心配になるほど良い体験でした。思えばこの記事は「私が神の天才という言葉に合い」「疑問を持ち」「公園で小学生の通りすがりのひとことを聞く」というすべてが成り立たなければ解決しなかった、と思うと、こんなにも奇跡というのは身近にあるものなのだと実感し、まさに私の運こそが神の天才であるなというように思いました。


みなさんも、もしかするとすぐそばに奇跡は転がっているのかもしれません。奇跡をひろうためにも、日々、徳を積むことを心掛けましょう。

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