俺はこう思う、きみはそう思う

絶対的評価、相対的評価・・・僕が大事にしているのはいつも相対的な評価です。周りにできることなら自分にもできなければならないと思い、その逆も然り。自分より上手な人、下手な人のスケールが変われば、大きく視点も変わります。しかしながら、この世界では相対評価よりも絶対評価が求められるケースが多く、私のような視点の異なる生物は非常に暮らしにくい社会が形成されています。

絶対評価は誰が見てもゆるぎないものですが、それは同時に、全員の価値が均等ではありません

学校の通知表なんかでは、1~3ばっかりつける先生もいれば、5しかつけないような先生もいらっしゃいます。通知表は絶対評価ですが、それはあくまでつけた本人からみてゆるぎないものであり、他人が見て正しく理解できるものではありません。

テストもそうでしょう。簡単なテストもあれば、難しいテストもあり、一概に90点と言ってもどのくらいすごいのかは簡単には分かりません。

「いい人」というのも難しい話です。「いい」という評価は言った本人以外が解読するには十分な情報量がありません。ヤンキーから更正して普通の人間になっただけなのか、それともお人よしすぎてどんな人とも話ができるのか、それともただの便利な人なのか・・・・

数直線に書かれた1と3を指さして、これらの距離はいくらですか、と聞くと、ほとんどの人は2と答えます。みんな、0から1の間を1と定義しているのです。もし0から1までの距離を100とするなら、この間は200となります。引っかけ問題だ!と思うかもしれませんが、絶対評価を考えるためにはこういったひっかけ問題のような要因を徹底的に排除する必要があり、そういった意味ですさまじく難しいものさしなのです。

私はこれらの理由から、絶対評価がとても苦手で、常に相対評価が重視されるような世界を作ろうとしています。相対評価はとても素晴らしく、たとえ異質なものであっても周りが異質であれば輝かず、たとえ普通なものであっても周りが異質であれば輝きます。すべてのものに輝く可能性があり、それもまた一つではない・・・なんと素晴らしい世界でしょう。

しかしながら、もし完全な絶対評価の世界が完成したとすれば、それもまた素晴らしい世界です。すべての人が共通の価値観で物を見ることができる世界・・・もはや意見の摩擦などありません。個性は可能な限り共通部分となり、全員が無個性という個性的な性質を持つことになります。

無個性というのは悪くきこえるかもしれませんが、何事にも寛容でいられるという意味では神にも等しい存在で、どの世界線でもかならず必要になります。

ここまでを語っておきながら、私は無個性というのが怖くて怖くて、完全な絶対評価が生まれることを嫌っています。つねにローカルな評価は必要で、グローバルが必要な場面はまだ私にはありません。絶対評価は強力ですが、その強さが個性的な意見を破壊します。私は個性的な生物なので、

絶対評価が流行ると自分の意見が通らず社会的に消滅してしまいます。


やっぱりここは私が王国をつくるより他ありません。将来はお金を貯めて、東京にいって

自分の王国を作ります。さーて、まず国を作るのに必要なのは、軍隊と・・・・

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