デスティネーション・イメージ

他人からよく頑張ったなと褒められると、「がんばった」という気分になります。この頑張りというのは本来自分の目標ではなくて他動的な目標で、ですが私たちは喜びます。

その逆もあり、このゴールを「えた・ひにん」に求めた江戸時代の農民たちは「私たちはまだゴールしていない」という理由から安心することができました。

デスティネーション・イメージとは、「あるデータの左端・右端を他人が指定することによってそう見える効果」のことです。実際には左端の奥に左があっても、右端の奥に右があってもかまいません。

デスティネーション・イメージの利点は、例えば5~9を指定しても、40~540を指定しても、

真ん中が0に見えるということです。(実際には7と290ですが、同じように見えます)

このイメージをインプットされる私たちは実際の値はどうでもよく、定められた左端と右端の

間でどのくらいなのか、それだけでいいんです。絶対的な数値よりも順位を優先して考える、これが、デスティネーション・イメージの罠なんです。

なんとも皮肉な話ですが、みなさん徒競走はやったことがありますか?1位を取れたら喜びますか?実はこれも、1位~4位というデスティネーション・イメージを受けているからこそ、1位が喜べるのです。

デスティネーション・イメージを受けていなければ、スポーステストの「50m走」に近いタイプになるはずです。自分のかかった時間のみに依存して評価され、順位が例えビリでも以前の自分よりスコアが高ければ良い変化をしたという評価を自分はするはずです。

みなさんテストを受けたことがありますか?100点を取れたら喜びますか?これはデスティネーション・イメージではありません。順位で喜ぶのがデスティネーション・イメージの特徴で、点数という全員に平等なステータスに喜ぶのはこれではありません。100点を取ったら喜んでいいんです、ただ、クラストップだからとか、学年トップだからという理由で、喜ぶことではないんです。


どうでしょう、あなたは順位に惑わされて、不自然なことで喜んだりしていませんか?

別に大会でビリでもいいんです。自分の思った以上の評価をされていれば喜ぶべきです。

大会で1位でもいいんです。自分が納得できなければ、それは喜ぶべきことではありません。

極端な話、遊戯王の大会で全試合を「初手エグゾディア全揃い」で突破してしまえば大会を優勝してしまうことになりますが、その優勝に意味がないことは、みなさん頭を捻ればすぐ分かるでしょう。



順位はまわりに依存し、

価値はあなたに依存します。

どうか「喜び方」「悲しみ方」をもう一度、見直してみてください・・・。

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