犠牲の上に成り立つもの
以前お話したブラック企業・・・いえ、イリーガル企業、あれは従業員という犠牲のもとに完成しています。チョコはどうでしょう?カカオの犠牲のもとに出来ています。あなたが普段使っているメモ帳やノートは、木の犠牲のもとに出来ています。あなたが学校に行く、というのは、学費という犠牲を払っています。音ゲーにもお金という犠牲を払います。なにかを起こすには、あるモノの存在能力を破壊しなければならない、これが価値上限定理です。
木を鉛筆にかえることはできますが、鉛筆から木を作ることはできません。すべての事象には方向があり、基本的にやったことというのは、すべて取り返しがつかないことになります。
可逆である、というのは、とても珍しいことなのです。
私たちは、取り返しのつかない世界を生きています。ゆとり世代と言われた私たちは二度とこの"ゆとり世代を過ごした"という事実から逃れることはできませんし、もう一度小学校からやり直す時間もありません。年金は払わされますが、将来自分が年金をもらうことは保証されません。借金のあるこの国を変えろと上の世代に言われますが、彼らには責任がありません。就職も難しい時代に入り、奨学金を借りても就職浪人で人生をあきらめざるを得ない人がいる中、悠々と生活保護でパチンコを打つ人もいます。いわば私たちは、直観的に見て詰んでいるのです。では私たちの人生を詰ませたのは誰かというと、それは私の知る範囲ではありません。
あなたは、地震で自分の家族を失ってしまったら、誰を恨みますか?きっとそれは、神であったり、少なくとも人間ではないでしょう。それと同じなのです。例え人為的に起こったことだとしても、それはある単独の人やグループが起こしたということは不可能で、私たちがこんな負け組の人生を送っているのはいわば「地震」や「雷」と同じ、天災に近い。
私は、中学校のときからそれを感じていました。あの頃はとても無邪気で、素直な思考を持っていました。小学校では、「老人を全員消せば年金を払わなくて済むから国の借金が減る」などと道徳で口漏らし、担任にも注意されました。「医療費を100倍にすればタバコを吸う人は減るだろう」とも言いましたが、君は障がい者をなんだと思っているのかと生徒指導に言われました。
国の借金は、もはや不可逆変化です。価値上限定理はありますが、価値下限定理はありません。
無限に借金は増えていきます。医療費を100倍にすることも不可逆変化です。医療費100倍でやりくりしている世界から医療費を100分の1にすることはできません。
とても理屈は簡単なのです。私たちは、自分のことだけ考えていれば、最善の回答にたどり着きます。ゆとり世代に文句を言う人を片っ端から抹消していけば「ゆとり世代だ」という非難はなくなりますし、生活保護を受けている人を全員1か月で死刑にすれば、見な必死に働くようになります。中学校・高校で赤点を取ったら死刑という制度を導入すれば、みな必死に勉強するでしょう。賢い人材もたくさん生まれます。しかしそれはすべて不可逆変化なのです。死んだ人は生き返りません。あたりまえのことなのですが、日本ではそういう不可逆な制度を導入する勇気がありません。無情に生徒を蹴落とす力が教師にもこの国にもありません。私たちは、調和という犠牲のもと、みんなと仲良くしながら生きていることを選んでいるのです。それは常に可逆で、調和を乱すのも簡単で、みんなと仲良くするのも簡単です。
私は、たばこをすうひとは全滅すればいいと小学校の頃から思っています。日本の法律がタバコを禁止できないのは、たばこを犠牲にたばこを禁止することが、価値を損なうからです。100円と50円を交換しようと言ったらみんな断るでしょう。国にとって、100円がタバコで、50円がタバコを禁止することなのです。
日本がタバコを吸うことを認めている以上、私はタバコを認めざるを得ません。それもまた、
私の意見の犠牲のもとに、大衆の意見という名の「法律」が存在しているからです。
こんなことをブログに書くことができるのも、拘束力を犠牲に言論の自由が許されているから
なのかもしれません。
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