シーソーと蜘蛛

「シーソー」は公園や小学校の常設遊具として古来より親しまれてきたもので、重さを上手く調節することで楽しむものであるが、やはりこれはシーソーのあるべき姿であると思う。

しかし私たちの見ているシーソーはもしかすると、とても都合のいいシーソーなのではないか。

実は近頃、横転したシーソーをみる機会があって、これを見つけた時にはなんとも思わなかったのだが、いざこのシーソーを触ってみて、裏に蜘蛛の巣ができていることを知り、涙をこぼした。

シーソーというのは、あの状態で存在するからこそ私たちから見て「縦」の方向のエネルギーで運動を起こすことができるのだが、横転したシーソーというのはそうもいかないのだ。

ではどの方向に力を加えればいいのかというと、それは私たちから見た「縦」ではなく、シーソーからみた「縦」に属すると思う。私たちはシーソーがあの「正しい」状態でいるからこそ楽しめるのであって、いざシーソーが横転してしまうと、それはシーソーからすればちゃんと力を与えてくれれば楽しめるように見えて、私たちから見ればそれはとても難しいことなのではないか。

この横転したシーソーはまさに世界を風刺したにふさわしく、蜘蛛の巣がそれを後押しする風刺だ。

なぜ蜘蛛の巣があるのか?これはとても面白く、蜘蛛からみればこのシーソーはもはや動かないものだと感じたわけなのだ。動くかもしれないとはまた別で、動かないと感じられたということだ。蜘蛛は私たちと同じでその判断ができた、それが横転したシーソーにはなかったことなのだ。

私は蜘蛛が何を知っているか分からないが、ここに巣を作ってもシーソーは気づかないよ、と一理思うことと同時に、蜘蛛にはそんなつもりなど微塵もないだろうということも分かった。

そのまま蜘蛛の巣の裏側からシーソーを軽く蹴って、公園を出た。シーソーには、とても申し訳ないことをしたが、蜘蛛は巣を微動だにしない、シーソーも、微動だにしない。俺から見ると二人は聖人にしか見えないが、これもまた都合の良いシーソーなのか。

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