デザートの定義的解釈
年末の楽しみとして,仲間とスシローにいったときのこと.
世にも恐ろしいメニューを発見した.
お分かりいただけるだろうか.8つあるメニューの左上から3番目,
どうみてもそのタイトルに疑問を持たざるを得ないものがある.
そう,「あんこと私と時々大学いも」である.
この文章を読んだとき,僕は解読することをあきらめた.しかし,今となってみては,
この文章が何を意味しているのかが知りたくてたまらない.
今日はこれについて解読していこうと思う.
まず,これは何なのか?
定義によれば,これは「3つのアイテムの集合体」である.そしてその要素は
「あんこ」「私」「大学いも」だということだ.
スシローでは,「まぐろ」を注文すれば「まぐろ」が来るわけだから,もちろんこれを頼んだのであれば,「あんこ」「私」「大学いも」のすべてが獲得できるはずだ.
あんこは100歩譲ってわかるとしよう.
「私を手に入れる」とはどういうことだろう?
その昔,田口ランディの語るところによれば,私を手に入れるとは「自分が何者であるかを確認する」ということらしい.一回だけ本で読んだことがある.
はたまた,他の心理的解釈に基づくならば,「自我を獲得する」という意味にも捉えることができる.
また別の例でいうと,もしあなたがあなたのコントロールする肉体のオーナーでないならば,これは「あなたの宿る肉体のコントロールを得る」と同義であるかもしれない.
しかし,難しいものだ.私はすでに私の肉体のコントロールを得ているし,自我も獲得していると自信を持って答えられるし,そう考えると田口ランディの言葉が一番正しいかもしれないからだ.
自分が何者であるかを確認するなんて,大変なことではないか.
それが,たった180円でできるというのなら,それはすごくお買い得だ.
「時々」の脅威
「私」の解釈を理解した上で,最後に問題になるのは「大学いも」だ.
そう,これは「大学いも」ではなく,「時々大学いも」なのである.
まずはその根本的な文章の読解として,「時々」という言葉は頻度を表す
品詞であることが大事だ.それが,あろうことか「大学いも」を修飾している.
つまり,これは「"大学いも" でない可能性を秘めている」ということなのだ.
いったいどういうことなのだ?
「大学いも」じゃなかったらなんなのだ?
というか,分かんないもんをメニューに出していいのか?
そのような果てしない疑問を抱えつつも,会場いる勇敢なる人類が
そのメニューを選択し,その不気味な名前の品はテーブルへと運ばれてきた.
まず「あ,よかった」という気持ちがあふれた.
そう,「大学いも」が来たからである.
もしかしたら「大学いも」以外が来るかもしれないという恐怖におびえながらも,なんとかその世界線は成立することなく,我々は「大学いも」を注文した世界線を選ぶことができたのだ.
そして,左上に「あんこ」,右下に「大学いも」が来た.
この時,私は気づいてしまったのである.
「 "私" とは,この 左下か右上のどっちか なのではないか」と.
明らかに見た目はアイスとクリームのようであるが,この商品は3つのアイテムの
混合であり,「私」のその一つだ.
私は「私」が私を指すと私的に偏見を持っていたが,それはこの2つのメニューのどちらかなのかもしれないと思った.
しかし,難しいものだ.どう見ても右下も左上も私ではなさそうなのだ.
「私」で画像検索してみても,このような商品は見つからない.
いったいどういうことなのだ.
というか,どうみてもアイスとホイップじゃないか.
疑問が続くばかりだ.私はこの問題を解決できなかった.
しかし,これについて深く考えたことで,私は,「私」がアイスでもホイップでもないという結果を得たのだ.これは大きい.田口ランディの言葉を借りるなら,私は少しだけ,自分が何者であるかを理解しつつあるわけだ.こうやって人生を積み重ねていくうちに,自分が何者であるか,その候補を少しずつ狭めていき,自分に到達するのではないだろか.
それだけの解釈ができたのだから,これでよい.このようなメニューは例外にすぎないのだ.
この謎は胸に秘め,またいつか解くことにしよう.
そうやってこころを落ち着かせ,次のメニューを見た.
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