む~す~ん~で ひ~ら~い~て

手~を~撃って ・・・じゃあねえわ、何を言ってるんだ

しかしこの一文、妙に面白いことだ。むすんでひらいたあとに、また結ぶ。

なぜだろう?「むすぶ」の反対は「ほどく」であり、その処理を行っていないのに

本当に結ぶことができるのか?

世の中には固結びというものがあり、2回結ぶとこの形になると考えられるが、

固結びになったと考えれば、自然か・・・


まあそんなことは置いておいて、実は、Greenvilleという曲があるのですが、知っていますか?

これを聞いたとき、は?と思ってしまいました。結んでひらいてなんですけど、

実は発祥が日本ではないんだと。

本日一番の驚きです。

実は「見渡せば」という日本の戦歌もあるのですが、どうやらこれもGreenvilleから派生したものらしいです。いや~驚きですね。とてもなじみ深いフレーズなので、たまたま複数個所で同時に発祥した可能性もあると言えばあるんですが・・・

日本に限らず、世界中でコード進行というものはもう枯渇しています。同じコード進行、もっといえば同じフレーズすらも使いまわしたり、そして魅せるのは音源のキレイさであったり、歌手の容姿であったりと、とても作曲とはいいがたい世の中になってしまいました。

昔の私であればこれを大きく批判していたものですが、今となってはもう、もっとメジャーなコード進行がこの先、生まれるだろうとも思わなくなりました。音楽の世界には限界があったようです。

小学生の頃、家のピアノで初めて作曲をした時には、すごい豊かな発想があったようで、いまの世界では到底使われないような進行が連絡帳に書き留められていたくらいです。発想というのは前提に押されやすく、1+1が2だと教わると、「1+1は?」と聞かれても2以外を答える確率が大きく下がります。曲も一緒です。この曲いいな、と思ってしまうとそのフレーズが脳裏に焼き付いて、他の発想を阻害してしまいます。発想が縛り付けられるんです。きっと絵も一緒で、好きな絵師の絵ばかりを見て、他を拒絶したりなんてしていると、その癖が染みついてしまうのかもしれません。

なにか感動するものを見て、その作品と自分を結ぶことは多いに素晴らしいことですが、

そこをもう一度開いて、すべて忘れて、また違う作品と自分を結ぶことも大切なんだろうと、

そういった意味で「むすんでひらいて、手を打って、またむすぶ」という歌詞なのかもしれません。

手を打つというのは、まさに一本〆のような感じで、ポカンと忘れるような仕草のことなのかも。

みなさんも、自分が何か偏った発想をしているなと感じたら、手を打ってみましょう。


両手を前に出して、パチン。





・・・あれ、俺何してたっけ・・・・?




あっ、そうか、ブログ書いてたんだった・・・・

決め台詞考えてたんだけど忘れちゃったな~~~まあいいか!!

忘れるのは人間のいいところ!!

それじゃあまた次回お会いしましょう~~

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